「六千人の命のビザ」を思い出して

先日、渡邊美樹会長の講演を拝聴し
やはり成功する人物はさすがに違うなと感銘を受けた。
特に講演のなかで、
シンドラーとマザーテレサを尊敬しているとのことを聞き、
以前読んだ「杉原千畝」の「六千人の命のビザ」を思いだした。
氏は「東洋のシンドラー」と言われ
今ではシンドラーと並び称される人物である。
氏の奥様が回想録として書いたものだ。

氏は当時リトアニアの領事で、
第2次世界大戦が正に始まろうとしているさなか、
日本の外務省命令に背き、銃殺覚悟でユダヤ人に通過ビザを発給した
名も無き一外交官である。
ナチスドイツはユダヤ人絶滅を考え実施しており、
一方日本はドイツ・イタリアと同盟を締結すべく戦争準備中であり、
当然ビザ発給など許可するはずもない。
恐らくこのビザがなければ
全員殺されたであろう本当に命のビザである。

悩んだ末の決断は
奥様の「どうぞあなたの思うようになさってください」であった。
これより寝る間も惜しんで6千人のビザを発給し続ける。
リトアニアを去るとき、駅にもビザを求めて群集が殺到した。
1人でも多く助けようと
出発間際まで必死でサインするも、手は限界に達している。

「許してください。私はもう書けない。
皆さんのご無事を祈ります。」

との言葉を残しつつ発車する。
氏は1人でも多く助けたかった無念の思いで泣く。
ビザを手にした人達から、

「スギハラ、私はあなたを忘れません。
もう一度必ずあなたにお会いします」

氏はその後日本に帰るが、これが原因で外務省免官となり、
職は転々とし、生活は食事にも事欠くほど困窮を極め、
子息を亡くした際、葬儀も満足にしてやれなかったという。
しばらくして生存したユダヤ人達が氏を探し始めるが、
外務省に何度問い合わせても、
「該当者なし」のつれない返事であった。

彼らのその後を気にした氏が
イスラエル(ユダヤ人建国)に問い合わせた際、
たまたま残した連絡先メモにより氏と繋がる。
氏は自分のした事を口にされた事はなく、
多くのことがユダヤ人の側から明るみになった。

今、リトアニアの首都には、
通りの一つに「スギハラ通り」と名付けられ、
杉原千畝記念碑が建立されている。
これを紹介した朝日新聞の記事に

「われわれは友人を忘れない」

との言葉が載っていたのが印象的だった。
またイスラエルでは、氏に「諸国民の中の正義の人賞」が送られ
授賞式には子息が出席された。
この賞は、ノーベル賞にも値するイスラエルの最高勲章だそうだ。
翌年エルサレムの丘には氏の功績を讃えた顕彰碑が建立された。
彼らは、ボロボロになった当時の
「命のビザ」を大事そうに持っていたという。

あのすさまじい時代背景のなかで死も恐れず
自分の良心に従った寡黙の一外交官が日本人であったこと、
またこのときの決断には改めて感動を覚える。

社長付(開発統括)岩松 寛道

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