出雲を旅してきました!
大阪の自宅から、電車を乗り継いで約1時間半……。随分と近いものです。なんせ、出雲は出雲でも、島根県ではなく、奈良県桜井市の出雲村ですから。
奈良県、特に南部には、旧国名を村名とする地域が多数ありました。但馬村、吉備村、長門村……。現在は村名として残っていませんが、大字といった行政区画名に残っています。桜井市の出雲村も、本来は、大字出雲と記すべき。ただ、本稿では便宜上、出雲村と呼びますね。
出雲村があるのは、三輪山から東へ連なる青垣の山々の南麓、かつて隠国(こもりく=山に囲まれた土地を意味する)と呼ばれたエリアです。今は国道165号が走り、宅地開発もされ、山深い印象はさほどありませんが……。
この集落は、お相撲さんの祖・野見宿禰(のみのすくね)とかかわりが深いことで知られています。野見宿禰をご存じない方のために、簡単に説明すると、彼は第11代垂仁天皇の御代に活躍した人物。
天下一の力持ちと自称する、当麻蹶速(たいまのけはや)という男と勝負させるため、垂仁帝の命により、「出雲」から招へいされました。結果は、野見宿禰が当麻蹶速の腰を足で踏み砕いて圧勝。これが天覧相撲の始まりといいます。
ちなみに、この勝負の舞台となったのが、出雲村と同じ桜井市にある「相撲神社」。相撲発祥の地として尊崇を集めています。
一般に、野見宿禰は島根県の出雲から来たと言われています。ですが、桜井市の出雲村出身ではないか? との声もあります。出雲村には明治16年まで、宿禰の墓と伝わる古墳が残っていました。もっとも、野見宿禰の墓は全国各地に点在しており、私の実家からそう遠くない、兵庫県たつの市にもあります。
さて、その後の野見宿禰ですが、垂仁帝に気に入られ、ブレーンとして働いたようです。当時、貴人が亡くなると、その御陵に故人と親しかった者を埋める、殉葬の風習がありました。垂仁帝はこれを哀れに思い、殉葬に代わる新たな葬礼スタイル案を臣下に募ります。宿禰は「人を模した焼き物をつくり、殉葬者のかわりに埋めればいい」と進言。これが埴輪の起源です。
このことが契機となり、宿禰の子孫は、代々天皇の葬礼を司る役目を担い、土師氏という氏族が誕生します。古墳の造成にも、土師氏は深くかかわった模様です。また、勇者の子孫ですから、軍事面でも活躍。はるか後世のことですが、中国地方に覇を唱えた戦国武将・毛利元就は土師氏の後裔です。
一方、「埴輪」のアイデアから分かるように、野見宿禰はかなり知的な人物。その証拠、というわけではありませんが、宿禰の子孫には、日本一の碩学、学問の神様・菅原道真公がいます。道真公は不本意な左遷を経て憤死し、怨霊となって祟りをなしました。こんな二面性も、野見宿禰と似ている気がしませんか?
出雲村の隣、大字初瀬に「與喜天満神社」という古社があります。御祭神はもちろん道真公。実はこの神社、日本最古の「天神」(道真公を祀る神社の総称)と伝えられています。道真公の怨霊に、氏族の始祖ゆかりの地で鎮まってもらおうと願い、当時の人々がお祀りしたのかもしれませんね。
このように、ちょっと散策するだけで、空想と妄想がはかどる隠国の地。感謝の念に堪えません。
建物総合事業部・大阪支店 志方 正紀