本土復帰40年

 2012年5月15日に沖縄は日本へ復帰して40年を迎えました。

戦後からアメリカ統治下におかれた沖縄は祖国復帰運動を続けて、
1972年に日本に返還されました。私はその年の10月に生まれました。

沖縄ではこの年に生まれた人を「復帰っ子」と呼んで、
毎年の本土復帰記念日になると、沖縄の経済や生活のバロメーターとして
取り扱う傾向があります。私は復帰前と復帰後の沖縄の変化は当時の写真や映像、
または両親からの話しでしか知ることができません。

40年という節目で現在県内では復帰に関連する企画展があちこちで開催しており、
先日復帰をテーマにした写真展を観に行きました。

アメリカ統治下の嘉手納基地周辺のお店の圧倒的な飲み屋の数々、
全てが英語の看板だらけで、どの写真も沖縄ではなくOKINAWAというイメージでした。
印象的だったのは、まだ70年代は白人と黒人が入るお店がはっきりと
区別されていたことでした。
当時この人種差別から考えるとアメリカから沖縄の人はどこまで
人種的な扱いをされていたのかと、想像も出来ないほど身震いがするほどでした。

 述べたように私には沖縄復帰の日はまだ存在していませんが、
唯一復帰の印象が一つあります。それは私が5歳ごろに道路交通が
日本と同じになることでした。「730」*7月30日に右側を走っていた車は
左に変更され、その後、左ハンドルの車が次々と右ハンドルに変わる印象を
覚えています。まだ幼かったので、大きな出来事とは思っていませんでしたが、
80年代になっても、信号機が道路の反対側についていたことを覚えています。

 今テレビなどでも復帰40年の特集番組などが組まれて、
当時の沖縄の人たちが様々な苦難の中でアメリカ統治下から日本へ
復帰することを願って様々な運動活動を見ると、今の平和な世の中と比較が
出来ないほど必死さが伝わってきました。復帰っ子として沖縄の経済成長に少しでも
自分が役に立てるように、これからも貢献したいと切実に思います。
日本へ復帰したからこそ、エイトにも入社が出来たと思うと、本土復帰に感謝です!

米軍事業部 沖縄営業所所長 神谷 卓哉

*戦前の沖縄県は日本国内の他の地域と同じく自動車は左側通行であったが、
沖縄戦終了直後の1945年6月24日に、沖縄を占領下に置いたアメリカ軍により
右側通行に変更されていた。日本本土とは逆の右側通行であるという状況は、
1952年の連合国による日本の占領状態の終了後も続き、
さらに1972年の復帰後も続いたが、道路交通に関する条約による
「一国一交通制度」を遵守する立場から、1978年7月30日をもって県内全域で
左側通行に変更されることになった。1975年に交通方式変更が閣議決定された後、
沖縄県警に対策室が設置され、2年間におよぶ準備作業が行われた。
これは、沖縄県の日本復帰を象徴的に示す戦後の一大プロジェクトであった。
1978年7月29日22時より沖縄県全域で緊急自動車を除く自動車の通行が禁止され、
8時間後の翌日6時をもって自動車は左側通行となった。