あの諺の由来が近所にあった!

大阪府吹田市の自宅から、徒歩で行ける“歴史散歩”ということで、同市垂水町の「雉子畷」、大阪市東淀川区の「長柄人柱厳氏碑」を訪ねてみました。

「長柄橋」にまつわる「人柱」の言い伝えは、大阪ではけっこう有名で、「雉も鳴かずば撃たれまい」の諺の由来にもなったといいます(所説あります)。かいつまんで説明すると――。

33代推古天皇御在位のころ(52代嵯峨天皇の御代との説も)、淀川の支流である「長柄川」はたびたび氾濫し、交通の難所となっていました。橋を架けようとしても、相次ぐ水害により、工事は困難を極めていたそうです。その際、垂水(今の吹田市垂水町)の長者・巌氏なる人物が、とある失言がもとで、人柱にされてしまいました。

この犠牲の結果、橋は完成したのですが、巌氏の娘は、父の死を悲しむあまり、口がきけなくなり、嫁ぎ先から離縁されることに。夫に連れられ、実家の垂水まで戻される途中のこと、1羽の雉の鳴く声が聞こえ、すかさず夫が弓矢でそれを射ました。

娘はその様を見て、「ものいわじ父は長柄の人柱鳴かずば雉も射られざらまし」との歌を詠みます。これをきっかけに再び喋れるようになった巌氏の娘は、離縁されることなく、夫婦はもとのサヤにおさまったということです。

夫が雉を射った場所は、「雉子畷」と名づけられ、現在、吹田市垂水町に比定地があり、上記の由来を刻んだ石碑が立てられています。

さらに、垂水町から4㎞ほど南へ下った、大阪市東淀川区東三国に、「長柄人柱巌氏碑」があります。巌氏を顕彰して1936年に建立されたもので、彼が人柱となったのも、碑の付近といいます。ただ、気になるのはその位置。

現在の長柄橋――立派なアーチ橋で、私が通勤に用いる阪急千里線の車窓からよく見えます――ですが、東三国にある「長柄人柱巌氏碑」から、直線距離でさらに3㎞ほど南にあります。

実は、古代の長柄川や淀川の川筋はよく分かっておらず、巌氏の犠牲によって完成した橋も、9世紀半ばには廃絶され、中世にはすでに、どこにあったのか分からなくなっていたとのこと。いずれにせよ、今の長柄橋よりずっと北にあったのでしょう。

このように、自宅から歩いて行ける範囲(かなり疲れましたが=笑)にも、好奇心をくすぐる歴史の痕跡は数多あるもの。さまざまな物語を伝え受け継いでくれた、昔の方々に感謝です。

建物総合事業本部 志方 正紀