女4人、男2人の6人兄弟の一番上の姉が先日亡くなりました。
享年80歳、戦前戦後の激動の時代を生抜いてきた
貴重な体験を語れる人が又1人居なくなりました。
残念ですが病気には勝てませんでした。
強くておおらかな性格で、{肝っ玉かあさん}でした、
晩年はだいぶおとなしくなっていましたが。

一番下の妹とは親子程歳がはなれていたせいか、
母の代わりに父兄会(昔はこう言いました)運動会、
面談等によく行っていました
(妹は母が48歳の時の子供でしたので、
あまり学校へ来て貰いたくなかったようです、親不幸者?ですよね)

子供達がママと呼んでいたので
何時の間にか通称のようになって、
以来回りが皆ママと呼ぶようになってしまいました。
と言う事で私もママと呼んでいます。
大田区大森で小さな看板屋を家族で営んでいます、
書くだけでなくカッティングマシン、レーザーでの切文字
(箱文字、象嵌等)結構後処理が大変な仕事があり、
又お金の工面等、愚痴一つ言わず頑張っていました。

エイトに入社させて頂く前押しかけ従業員?として
1年程働かせて頂ました。たまに、給料以外に
皆には内緒でお小遣いも貰っていました
(宵越しの金は持たない主義?かどうかは判りませんでしたが)

あの時は本当に有難かった。
昔兄弟が皆若かった頃、
一族郎党20名位だったとおもいますが車5・6台連ねて
年1回2・3泊の旅行に行っていました、

その時のお弁当担当がママでした、
出発が午前3時4時でしたから20余名分のお弁当を
寝ないで作ってくれたのを覚えています。
冬の北海道に行ってみたいと良く言っていました、
そんなささやかな夢も晩年身体の自由が利かなくなってしまった為
叶えてあげる事が出来ず今も心残りです。

少し位無理をしてでも連れていってあげればよかったのでは、
と思う今日この頃です。20数年前私が1ケ月程入院した時
3日とあけずに病院に来て呉れて何かと世話をして呉れたのに、
ママが入院したのに何もしてあげられなくてごめんなさい。

ママには言葉に尽くせない程お世話になりました。
本当に有難うございました。
10年位の間に兄弟上3人を亡くしてしまいました。
残った3人仲良く長生きするつもりです。
ママも黄泉の国で両親と上の2人で仲良く暮らして下さい
(2番目の姉とよく喧嘩していたらしいけど、もうしないでね)

ママ有難う。

取締役本部長 管理本部 平澤 優美