私の少年時代はS君抜きでは語れない。彼がいなければ実に味気ない小学・中学校時代を過ごさねばならなかったと思う。
S君に初めて会ったのは小学校5年生の頃だったと記憶する。友達になったきっかけは何だったか今となっては思い出せないが、どちらかというと消極的だった私から声をかけるなど考えづらく、多分S君のほうからアクションがあったのだと思う。S君も私もさほど勉強ができたわけではないが、S君は何処からともなく人を引き付ける魅力を持っていた。
小学校6年の頃、学校の帰り道、農家の納屋の前に積んであった古い瓦を空手の試し割りのまねごとをして割ってしまったことがあった。S君の他にも2人ほどいたように思うが、私も含め全員がホームルームで立たされ、先生にこっぴどく叱られたこともあった。
また、化石に興味を持ったS君に導かれ、和歌山県まで発掘調査に出かけたこともあった。
もちろんそう簡単に化石など見つかりもしなかったが、辺りが暗くなるまで汗水流して崖の土を掘ったのも懐かしいいい思い出だ。
当時「チャーリー・ブラウン」が人気で、ポスターカラーでこま割りの漫画を描いたりした。もちろんこれもS君主導である。
中学時代は推理小説に興味を持ち、たくさんの文庫本を買って読んだ。読むだけでは飽き足らず、斬新なトリックを自分で考え短編小説にもした。それがサークルに発展し、「トリックKK」と命名された。オリジナルメンバーはS君と私だが、他にも2人ほどいたように思う。
S君と私はそれぞれ別の高校に進学し、それまでのような交友は次第になくなっていったが、私が大学1年の頃、突然S君から連絡があり、梅田の紀伊国屋書店の自費出版コーナーに詩集を出すので寄稿してほしいといった内容だった。私はS君の頼みならばと、一晩徹夜して6、7編の詩を書き上げた。高校時代はお互いに「萩原朔太郎」に傾倒していた時期があり、同様のテイストで詩集「香港のベッド」は刊行された。
社会人になってからも、エルビス・プレスリーやチャック・ベリーに影響を受けてロックンロールにはまってしまったS君がバンドを結成する際、ドラマーがいないということで勧誘されたことがあったが丁重に断った。当時、東梅田にあったライブハウス「阿吽(あ・うん)ポジション」へ何度か足を運びS君らの演奏を聴いたが、ドラムがへたくそだったのを今でも覚えている。それから何年かあり、骨董屋を開いたと聞いてS君のお店を訪問したこともあったが、次第に会う機会も減り、今では年賀状のやりとりだけになってしまった。
疎遠になって何となく連絡するのも照れくさいが、思い切って飲みにでも誘ってみようかとふと思ったりする今日この頃である。
建物総合事業本部 大阪支店 Y.M